昭和四十四年一月十日
X御理解第十二節 「神に会おうと思えば、庭の口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」
教祖様の偉大さと云うか、天地そのものを神様とされたところに金光教の素晴らしさがあります。しかも、これは、教祖様の信心の実感なんです。「畑で肥をまいておろうが、道を歩いていようが、神の中を分けて通りおる様なものじゃ」と、これも教祖様が神を見られた。いわゆる見神なのである。
そこで、これは、教祖様の実感なのでるから、ひと口で決っておるのですけれども、私どもがそれを云え思へれる信心を頂かなければいけない訳です。
拝めばこちらを向いて下さると云う神様ではなくて、云うなら、天地宇宙にへんまんしておられる神様なのです。そういう神様を実感させて頂けるところまでの信心を、私どもはすすめていかなければならんと思うのです。
その事を、私、神様にお願いさせて頂いとりましたら、雨傘を頂くのです。これは、私が、修行中の事でした。福岡から帰って来る時、天気が良かったものですから、つい電車の中に持っておった傘を忘れてしまった。そして、大城の停留所に着いて気が付いた。気がついたと云うより、神様から、お気ずけを頂いて、思いだした。
「雨傘一本持っとりゃ、降っても照っても安心じゃろうがと頂きました。ここで傘を安心のおかげと云うのは、それからです。
なる程、傘一本持っとりゃ、例えもう降りそうになってきても、ひとつもあわてる事はいらんでしょう。よく照ってきても日をよける事が出来るですね。そこのところを、教祖は、この方の道は傘一本で開ける道とおっしゃる。
それも、傘一本で開ける道と云うのが、私にはよく分からなかった。それが教のこの十二節を頂いて、「神に会おうと思えば、庭の中を外へ出て見よ、空が神、下が神と云う、そこに神様が信じられる、おかげを頂いたら、まず何と云うても、その神様の、性質と云うか、その神様が、どの様な神様か、私ども人間氏子と、どの様なかかわり合いがあるのか、又は、「子供を持って@@せよ」ともおっしゃっておられる。子供が可愛いと思う、そういう心で、天地の親神様は、私ども一人一人の上に、思いをかけて下さる神様であると云う事が、分からなければいけない。しかも、その神様と、私どものかかわり合いと云うのは、どういうものか、その親神様に対する氏子と、こう呼ばれる。いわゆる天地の親神様を親と説かれ、私どもを氏子と説かれた。
ですから、これは分かりやすくする為に、親子の情をもって、説かれたと思うのです。子の不幸を願う親なんてありません。どうかこの子が成功する様に、幸せになる様にとだけしか願わない様に、天地の神様も又、私どもの子とを、そういう風に、思うて下さる神様だと云う事を、説かれる。ですから、そういう願い、思いを持ってござる神様だと云う事が、私どもが分かった時に、初めて生まれてくるものが、安心なんです。氏子可愛いの一念、そういう神様を私どもが頂いておる事を分からして頂くところから、生まれて来るのが安心です。天地宇宙に、へんまんしてござる神様に、いつも御守護を受けておると、信じ実感出来る。そこに生まれてくるものが、安心なんです。
金光様の信心しよるから、安心と云う人がよくあります。そんなら、その人は、本当に、その神様を頂いておるであろうか、さあ、もう何かが起こったら、腹が立ちよる、もう何が起こったら、うろたえよる、と云う程度にしか頂いてないのじゃなかろうかと思うのです。そういう神様であると、分からして頂く為に、そこに信心の稽古が必要と云う事になると思うのですよ。
そういう偉大な働きと、そういう親が子を思う情をもって、私どもの上を見守って下さってある。私どもの上にお働きかけ下さったある神様であると云う事です。実感するところから生まれてくるのが安心なのです。
そこで、その安心を頂く為に、そういう神様である事を分からして頂くために、様々な修行がある。
その時、電車から降りて、只今の様な事を神様から、お気づけ頂いた。傘一本持っとりゃ安心だと、そんなら、今の私と云うものは、当時のですよ、どういうものか、今私が申しました様に、神様が、絶対だと人にも話した。又、事実おかげを受けてきた。例えば、商売の上にでも置いたものを取る様にして、おかげを受けてきた。ところが、段々、おかげが受けられなくなった。その当時は、自分でも神様を見神した、いわゆる神様を、そこに見た。神様は、この様にして、私どもの上に働いて下さるんだ、皆さんしっかりせないかんですよ、こういうおかげの頂ける神様ですよと、人にも話した。ですから、いよいよの時には、いっちょん心配せん。
そういう神様のお守りを受けておるからと人にも話しておる様な私が、段々段々困った事になってきた。そしたら、その時私が神様に頂いたのは、バラバラになった、番傘を頂いたのです。
これじゃあ雨にも、お日照りにも、役に立ちませんよね。
今、私は、様々な難儀な中をとおっておるんだと、@@云うておった神様は、こんなにも間違いのない神様だと、云いそして、信じてもおったのだけれども、実際は、信心させて頂いっとて、そんな事になってきたら、いわゆる難儀から、なお、難儀になっていく状態であった。
それを、神様が表現して下さったのが、傘がバラバラになっておると云うところであった。そこでです、長靴をはいとるなら、長靴もいらん、高袋はいとるなら、高袋もいらん、傘を持っとるなら、その傘も、もう役に立たんのだから、そのバラバラになっておるそれをです、ひきちぎってしもうて、それを、杖がわりにする信心を頂いたら、少しはましだ。少しは楽だ。だから、云うなら、度胸をすえる訳です。もう降るなら降れ、照るなら、照れと云う事なんです。
私の安心は、そこから生まれてきた安心、ぬれん様に、照りつけられない様にと云う信心から、もう照るなら照れ、降るなら降れ、濡れまいとは思わん、降ってきたら、濡れようと思う。そのかわりはだしで、尻ひっからげて、はまっとる。
きつい時には、神を杖につけばいい。傘がさすものでなく、杖がわりにさして頂くところから、いさぎよい安心が生まれてきた。いわゆる信心度胸と云うのです。その信心が度胸から生まれてくるところの安心、いわゆる「ままよと云う心、ままよとは、死んでもままよの事ぞ」と、おうせられる。
そこからです。十二分の徳が受けられる、とおおせられるが、確かに、そうだなあと、今にして、私は思うのです。
ままよと云う心になれ、ままよとは死んでもままよのことぞ、降るなら降れ、濡れてもかんまん、もう既にはだしではまっとる。そこから生まれてくる安心。 そういう中から、どういう事が私の信心に表れたか、又は、実感してきたかと云う事なんです。私が本気で濡れようと思うたら、神様は濡らしなさらなかった。私が本気で、暑い思いをしようと思うたら、もう暑い思いもさせんぞと云う働きが始まってきた。
もう濡れたっちゃよか、照らされたっちゃかんまんと云う死んでも、ままよと云うところから、十二分の徳が段々身についてきよったとしか思われん。
お互いが、濡れまいと思う、暑い思いをしたくないから、信心しよると云う時代から、濡れたっちゃかんまん、と云う度胸が出来たところから、私は、いわゆる、極端に云うと、死んでもままよと云う心、そこには、生かさにゃおかん、と云う働き、濡らしちゃならんと云う、親の思いが、そこにある。神様の思いが、ひしひしとここに感じられる様になる。
そこで、そんなら、当時頂いた御理解の中に、とういう風に私が皆さんに聞いてもらっておるかと云うと、「御理解は、神様の目であり、耳であり、口である」と、云う様な御理解が残っておりますでしょう。
庭の中を出て見よ、空が神、下が神とまでは分からんに致しましても、ここにお参りしてくれば、そこに神様を見ることが出来た、神様の声を、そこに聞く事が出来た。そこから、信心が段々分からして頂いてです。これは、実感として、なる程、空が神じゃ、下が神じゃとて、なる程、神の中を分けて通りよるようなものじゃと、云う様な、教祖様が実感された神様を、私どもも同じく実感する事が出来る様になる。そこから、生まれて来るのが安心なんだ。そういう神様の御守護を受けておるから、安心なのだ。
それは、始めから、安心が頂けるのじゃない。私がいざと云う時には、こげな神様を頂いとるからと、云いもし、思いもしよったけれども、実際は、反対の方へだんだんなっていって、信心しよって、どうしてあげん貧乏せんなならんじゃろうと云う様なところまでいったけれども、そん時には、もういよいよ、例えば、四畳半の、降れば絶対雨がもる、畳も敷いてない、そういうところにあっても、それ以上の家へ住もうとは、私は全然思わなかった。
それが神様が段々おかげを下さったのでございますけれども、もう、そういう腹が出来ておった。それを皆んなは、どうでんこうでん信心をして、家も建てたい、立派な着物も作りたい、こげな生活をさせて頂かなならんと云う事だけが願いである。だから、願いが成就せんと、神様が云う事聞いて下さらんと云う事になる。
ですから、そこ迄いかん前にです、ひとつどん腹をすえてです。神様が、とり上げなさるもんなら、とり上げられたってかんまん、それは命でも。濡れるなら、濡れてもかんまん、と云う度胸を作らなければ、ですから、はまらにゃいかんと云うのです。はまらなければ朝参りも出来やしません。
雨が降ったら、足も汚そうごとなか、着物も汚そうごとなかと思うから苦しい、死ぬまいと思うから苦しい。死んでもよかと腹が決まると、もう安心、まずそういう安心を身につけなければいけない。それを、ままよと云う、ままよとは死んでもままよの事ぞ、そこから、十二分の徳が受けられる。そういう徳が身に着いてきてです、はじめて、例えば、人から悪口を云われるとしますか、あの人が、悪口云いよるのじゃない、神様が云うておって下さっておるんだと、実感出来る様になってくる。
云うならば、神様が見えてござる、神様が聞いてござる、神様が云って聞かして下さる。それが先生のお話だけではない。姑親が云うて聞かせる事もあろう。嫁が云うて聞かせる事もあろう。うちの嫁がこげん云うたし云うて涙を流す事はいらん。嫁が云よるとじゃない。あれは、神様が云いござると思えば、有難い。と実感出来る様になる。
まず、そこでですね、神に会おうと思へばとおっしゃるのですから、本気で神に会おう。いわゆる見神しようと云う、神をそこに見ようと云う願いが、そこに必要である。
そして、なる程、御理解は神様の目であり、耳であり、口であると云う実感をお互いが分からしてもろうて、あれは、神様の私に云うて下さるお話としてです。それを頂かせてもらう、そこから、なる程この神様は、親神様じゃなあと云う様な、実感を頂く事が出来る。そこから、出てくるもの、いわゆる傘を杖にして一生懸命そこを通らして頂きよるうちに段々と、云うならば降っても濡れんで済む、照っても暑い思いをせんで済む、安心が頂ける様になる。安心の傘が頂ける様になる。
その安心の傘と云うのは、唯、おかげばあっかりの中から生まれてくる安心はもろい。普通から、見たらおかげじゃないと思われる中に、腹を決めて、どっこいと、来るなら来いと、矢でも鉄砲でも持ってこいと云う様なです。度胸が出来てから、そこから生まれてくる安心でなからなほんなもんじゃなか。でなっかったならば、私は、この御教を実感としてです。教祖が実感されたであろう様にです。神に会いたいと思へば、庭野中を外へ出て見よ、空が神、下が神と云う様な、簡単なこのお言葉ですけれども、私どもはこの簡単なお言葉の中からです、本当にそうだと実感出来れる信心を、身につけていかねばならんですね。どうぞ。